時間の主観と客観

 

現在この本を読んでいます。

ジョン・エリス・マクタガート:著、永井均:訳  『時間の非実在性』  (講談社学術文庫)

 

マクタガートの時間論を読んでみて、「時間の自由」を考えていました。

時間には2つの方向性があると思います。

1つを「主観的時間」、もう1つを「客観的時間」と名付ける事にします。

 

過去から現在そして未来への時間

「客観的時間」について先に説明すると、これは私たちが使う「時計時間」です。

 

例として、「日本史」を挙げます。

恐竜がいた時代から、氷河期を経て、縄文、弥生、・・・明治、大正、昭和、

そして平成という現在までの、日本における一連の歴史的流れです。

 

現在の平成という時代から見れば、昭和以前は過去であり、

また元号が変わる時は未来です。

 

さらに短い期間で言えば、

あなたが誕生してから死ぬまでの一生にも、

客観的時間が施されます。

 

その多くは社会によって決められたものです。

どこの都道府県で生まれ、どの学校に行き、どの会社に勤めて、親族に誰がいて…。

 

「あなた」が誰なのかを説明するには、

現在より前である過去について、これらのような事柄を説明する事になります。

そして、あなたの周りの人は、この客観的時間であなたを定義します。

 

あなたの中にある時間

上記の客観的時間とは別に、「主観的時間」というものを考えてみます。

「あなたが考える人生」とでも言いましょうか。

 

例えば、「客観的時間」であなたを説明する場合、

小さい頃から昆虫が好きで、大学では生物学を専攻し、生物学の学者をしているとしましょう。

もしあなたに初めて会う人がいれば、その人にとってあなたは「生物が大好きな学者の人」という認識になるはずです。

 

しかし、あなたの中の「主観的時間」は、このような外から見えているものとは全然違う意味を持っているかもしれません。

例えば、実は昆虫や生物が好きなわけではなく、背後に「あなたの父親」という大きな存在があるとします。

 

小さい頃は父親に無理やり昆虫採集に連れて行かれ、

父親が大学で生物学の学者をやっていてその道に来るように誘われたから、

今あなたも父親と同じように大学で生物学の学者をしているという「別のストーリー」があるのです。

 

あなたにとっては、生物学が云々ではなく、「父親と同じ道を行く」という意味で時間が繋がっています。

(…学者をするくらいなのだからそもそも生物がそれなりに好きじゃないと無理だろ、というやや現実的な視点は、置いておきます。)

「主観的時間」の意味が、「父親への親孝行」であるとも言えるわけです。

 

「主観的時間」とは、その人にとっての「人生の意味」です。

 

あなたが、生物学を研究するためではなく、父親への親孝行のために人生を歩んでいるとしたら。

もし本当にそうならば、ある日突然、全く別の違う職業に就く事になるかもしれません。

 

昆虫を見る中で本当に好きだったのは、昆虫の中でも特に「蝶々の色や形」だったとするならば、

画家の道を歩むようになる可能性もあるわけです。

 

これを傍から見れば、

「学者だった人が突然絵描きになった!」

と思うでしょうが、あなたの中の主観的時間は「蝶々の色や形」という共通項で繋がっています。

「主観的時間」とは、外部の人ではなく、あなたの心が決めるものになります。

 

2つの時間から自由を考える

ここまで「主観的時間」と「客観的時間」という2つの時間について述べてきましたが、

それぞれを「自由」という観点で見るとどうであるか、を最後に記します。

 

私は、「主観的時間」にも「客観的時間」にも、

その両方に自由から見たメリットおよびデメリットがあると思います。

 

まず主観的時間のメリットは、自分の「心」が基準のため、「いつでも変える事が出来るという自由」があります。

生物学者が絵描きになるように、自分の人生の意味は自分次第で変える事が出来、人生をどう捉えるかはその人次第であるという自由です。

 

ただし、主観的時間は、人の寿命に依存しています。

私たちの人生の期間は「有限」です。

 

平均寿命が伸びているとは言え、おおよそで100年間のみ、脳が動いている間しか、主観的時間は享受出来ません。

主観的時間は、私たちの脳が、人生あるいは日常に意味付けを出来なくなった時点で無くなってしまいます。

 

医学で「脳死」という言葉がありますが、まさにこれは人生という時間を、主観的時間として捉えています。

植物状態同然になり、主観を持たず、肉体の細胞分裂だけで生きている場合です。

周囲の家族にとっての「その人」や、社会的な「人」としての認識が、客観的時間の中で存在しても、

その人の心が定義する主観的時間は存在しません。

 

では、「客観的時間」のメリットとデメリット。

 

先にデメリットから言えば、なんと言っても、社会や世間に縛られてしまうという事があります。

あなたが幼少時の昆虫好きから生物学者になり、しかも大学教授にまでなっているとするならば、多くの人はあなたを生物学者としてしか見ないはずです。

特に直接影響を受けた父親や身近な人にとっては、あなたが画家になる事など予想も出来ないでしょう。

 

一方「客観的時間」は、主観的時間と違って寿命に依らず、無限の広がりを持っています。

人生約100年間、誕生から死ぬまでの間だけを考えると、その期間は限定的です。

しかし、人類の未来、地球の未来、そして宇宙の未来を視野に入れると、自由は大幅に拡大します。

 

自由を考える上で、「自分が死ぬまでにどう生きるか」というのは、あくまで出発点です。

より大きな自由には、自分だけでなく、人類全体や宇宙全体が包括されます。

 

「主観的時間」のメリットである「心」、そして「客観的時間」のメリットである「無限の宇宙」。

両者の時間のメリットから自由を考え、自由をより大きくしていけたら、と思います。

「今」は限りなく近い未来

 

あなたが、自分の将来について考えを巡らせているとします。

「自分のやりたい事は何だろう?好きな事は?挑戦したい事は?」。

沢山の問答が、頭の中を駆け巡っているかもしれません。

 

「本当にやりたい事」を見つけ出すのは、そう簡単ではないかもしれません。

大抵の場合、私たちが思いつく「やりたい事」とは「知っている事」です。

つまりは、「知らない事」は、「やりたい事」に浮かんで来ません。

 

江戸時代の日本は鎖国していて、外交がほとんど無かったため、

その頃の日本人の多くは外国がどういう所かを知りませんでした。

アメリカという存在を知らないのですから、アメリカに行きたいと思う人はそう居なかったでしょう。

 

しかし、学問に精通していた医者や文化人は、鎖国中も外国情勢を知っていたため、

当時でも海外留学をしたり交流したりしていました。

 

「知っている」か「知らない」かで、

やりたい事・好きな事・挑戦したい事は、簡単に変わってしまいます。

 

あなたが今考えている「やりたい事」というのも、

今のあなたが持っている知識や経験に依存しています。

 

ですから、将来的にやりたい事が変わる可能性もあり、

むしろやりたい事が変わらない方が稀かもしれません。

なぜなら、将来でもやりたい事が変わらないという事は、

知識や経験を新たに習得していないという事でもあるからです。

 

そんな人はよほど狭い世界で情報に触れずに生きているのです。

つまり鎖国状態です。

 

では、今、「やりたい事」を考えるのは無駄なのかと言うと、そんな事はありません。

 

例えば、今がお昼の12時00分00秒00だとします。

あなたが考えている「やりたい事」は、12時00分00秒00という「一瞬」だけのやりたい事ではないはずです。

たいていは、将来の事を考えているわけですから、数年単位だったりします。

 

もっと短く、今から数ヶ月にやりたい事とか、今月でやりたい事でも良いわけです。

さらに言えば、今日やりたい事、12時30分までにやりたい事、この1分間・・・30秒・・・1秒・・・。

 

どんどん時間を短くして切り取っても、

12時00分00秒00という「今」とほぼ同時に、

「未来」は訪れます。

つまり「今やりたい事」は、「限りなく近い未来にやりたい事」です。

 

遠い未来を予測して「やりたい事」を考えるのは、時に非常に難しく感じます。

しかし、「今やりたい事」を考えるのは、それに比べてはるかに楽ではないでしょうか。

大きな事でなくても、ごはんを食べたいとか、本を読みたいとか、走りたいとか、なんでも良いわけです。

 

これら一つ一つを、くだらないなどどスルーする事無く、丁寧に拾っていく。

そうすれば未来、少なくとも近い未来が見えてきます。

 

「今」とは、「限りなく近い未来」。

「今やりたい事」を大切にする事で、未来を創る事が出来るはずです。

傷つかずに生きるには

 

 

当たり前と言っては、当たり前なのですが、他人と自分は異なる人間です。

 

しかし私たちは、他人が自分と同じ感覚や考えでない場合に

「傷ついた」

「分かってもらえなかった」

「失望した」

と、自分が被害者であるかのように感じます。

 

 

特に、

他人と自分が違うのは当たり前だという意識を

持ちにくい時期というのがあります。

 

それは単純に言うと、

「弱っている時」

です。

 

世間に見放されるような辛い事や、

人間関係がこじれて自分の立場が危うくなった時、または失恋した時などは、

他人と自分の境界が曖昧になりがちです。

 

あるいは、生まれてからずっと長い間、

自分が「弱い」と感じている人も同様にいると思います。

 

他人の言葉に傷つくたびに、

世間・社会から一歩ずつ遠のくことで、

必死に自分を守ろうとしている人もまたいるはずです。

 

「傷つきやすい」人や、

またはリストラや失恋などの状態にある人は、

自分に共感し賛成してくれる人を強く求めます。

 

他人と一体になれなかった経験を何度も積み重ねるほど、

「どこかに自分を本当に理解してくれる人がいるはずだ」

という信念はより一層強くなっていきます。

 

 

話を元に戻しますと、

「他人と自分は別の存在であって当たり前」

この事実は未来永劫変わりません。

 

では、なぜ私たちは、

自分の味方になってくれる他人を

わざわざ求めるのでしょうか。

 

自分と同じような他人に出会う事は、言わば

「奇跡」

です。

 

その「奇跡」を求めて、

毎日群衆をさまよっているならば、

それはそれは疲弊してしまって当然だと思います。

 

「今日も分かってもらえなかった」

と肩を落とす日々が、生まれてこの方ずっと続いているのですから、

人生に嫌気がさしてしまう事も稀ではないはずです。

 

 

実は、「傷つく」の原因の1つに「愛情不足」があります。

あなたが他人の言動に一喜一憂してしまうのは、

自分の中の愛情が欠如しているからです。

 

先に上げた、リストラや失恋というハプニングは一時的な愛情不足を引き起こしますし、

また日常的に傷つきやすい人は恒常的な「愛情不足」に陥っています。

 

その理由についてはここでは割愛しますが、やはり親子関係にあると言えます。

 

しかしあなたが大人であるならば、

これまでの不遇な境遇に関わらず、

愛情不足を解消する事は可能です。

 

ポイントは、冒頭でも述べた

「他人と自分は違う存在である」

という当たり前の事を念頭に置くことです。

 

そして、他人は自分の代わりには絶対になりません。

だから、自分の中の愛情不足は自分で解決する必要があるのです。

 

まずは、「嫌な事を1つやめる事」です。

 

あなたが、自分の嫌な事をわざわざやるのも、

愛情不足を埋めるために

無意識があなたに働きかけているからに他なりません。

 

世の中には、嫌な事をやらずに生きている人が、

あなたが思っているであろう人数よりずっとずっと多くいます。

 

他人の言動に傷つかない人は、自分を削って誰かのために何かをしようとは決して思いません。

だから、いつも自分のためになる事を選択します。

もし他人と何か共通点があれば「奇跡」だと思っています。

 

それだけ、自分と他人には大きな境目があると分かっていながらも

他人だらけの中で生きていけるのは、

自分の中の愛情が自分を守ってくれているからなのです。

 

やりたくない事をやらないようになるにつれ、自分の中の愛情不足がどんどん解消されていきます。

愛情に満たされたあなたは、傷つかない、自由な人生を手に入れられるのです。

 

卒業を宣言してみる

 

私たちは、

両親・友人・職場の上司・時には近所の人、など

沢山の人の価値観に触れながら日々を過ごしています。

 

あなたの価値観に最も影響を与えた人は、あなたの両親です。

 

幼い頃の、しつけや家庭環境によって、

あなたの根底の価値観が形成されました。

 

しかし、大人になるにつれ、

両親の価値観とは

だんだんズレが生じてきます。

 

両親の価値観以外で、初めて出会うのは、

友人の価値観かもしれません。

 

例えば小学校の同級生。

 

学校や遊びを通じて、

楽しい事や面白い事を知り、

あなたは親世代とは違う価値観を身に付けていったと思います。

 

しかし、小学生の頃は毎日一緒に遊んでいた友人とも

今となっては話が合わなくなり、

特に連絡する事も無くなったかもしれません。

 

 

過去の親しい人と疎遠になるのは、

あなたがその人から「卒業」したからです。

 

「人から卒業する」と言うと、

何だか薄情な人だと思われるかもしれませんが、

 

そもそもあなたの価値観が

他人のそれと全く同じになるはずは無いのです。

 

だから、

小学校では同じような環境で過ごしていたため共通点があった同級生も、

環境が違えば価値観も違ってくるのは当然です。

 

学校を「卒業」するのは、学習課程を終えた時ですが、

人を「卒業」するのは、価値観を別のものにシフトする時です。

 

 

もう1つ例を挙げるならば、

「憧れの芸能人の真似」。

 

これも、誰しも一度は経験した事だと思います。

 

憧れの人を真似するのは、

親の価値観ではなく自分が気に入った価値観を選択し、自分自身を作り上げていくという

一種の通過儀礼でもあります。

 

 

様々な価値観の取捨選択を何度も繰り返し行い、

出来上がったのが今のあなたです。

 

 

もしあなたが今、人生に行き詰まっているとすれば、

これまで取り入れてきた価値観が合わなくなっています。

 

ファンだった芸能人に対して興味が無くなる時が来るのと同様に、

価値観の取捨選択は、

人生で繰り返し行われます。

 

好きだった芸能人の情報を受け取らなくなり、

その価値観にさよならを告げ、

「卒業」を宣言する。

 

その宣言を行った瞬間から、

あなたは生まれ変わっているのです。

 

自由になりたいあなたへ

報われない努力

 

私たちが抱く願望として

「報われたい」

という思いがあります。

 

私たちはいつも、素晴らしい自分になりたくて、

日々勉強や仕事を一生懸命頑張ります。

 

「報われたい」という願望についてごく単純な例を話しますと、

・貧乏な人は、お金を稼いでお金持ちになれば報われるだろう

・デブと言われた人は、ダイエットで痩せてスレンダーに変身する事で報われるはず

というものです。

 

「貧乏」「デブ」というネガティブな属性から抜け出し、

「金持ち」「スレンダー」という世間一般的にポジティブな属性に変わる事が出来れば、

自分自身が「報われる」気がしますよね。

 

努力の種類

「努力」

と言うと、一見輝かしいように思えますが、

実は「良い努力」と「悪い努力」があります。

 

「良い努力」とは、その過程が楽しい努力です。

発端はコンプレックスであっても、自分を変えるために仕事やダイエットの1つ1つを楽しめる場合は、

それ自体に喜びを感じます。

 

一方、「悪い努力」とはその逆で、過程が苦しい努力です。

お金持ちになりたくてお金を稼ぐために働いているけれど、毎日毎日辛い事ばかり。

痩せたくて食事をだいぶ我慢しているけれど、なかなか続かなくて難しい。

 

自分のコンプレックスを克服する、という考え方においては、

コンプレックスが強ければ強いほどの努力に拍車がかかりますから、

物凄いエネルギーが噴出します。

 

時にはそのエネルギーが猛烈に自分を追い込んでしまい、

自分自身を傷つける場合もあるのです。

 

そして、「悪い努力」ばかりをし続けていると、

エネルギーはどんどん自己否定へと向かってしまいます。

 

努力の正体とは

努力を続けているつもりでも続かなかったり、

また何かを達成しても満足できない場合は、

悪い努力つまり「報われない努力」を選んでしまっています。

 

「良い努力」をしている人は、

世界一の金持ちになったら報われるのではなく、

仕事を通じてお金が溜まっていくのが報われる事を実感しているはずです。

 

ダイエットでも同様で、

人に心配されるほど痩せたら報われるのではなくて、

痩せて綺麗になっていくと自分が報われるのです。

 

自分の行動の過程には意味を見い出せない人、

目的を達成しなければ報われないと思う人、

今とは別の新しい世界を見たいと雁字搦めになる人。

 

もしあなたがそうだとすれば、「報われたい」の正体は

「根本的な自己否定」

です。

 

追い立てられるような気配の中で

「何か頑張らなければいけない」

と思うのは、否定に操られている証拠です。

 

あなたが本当に「報われる」状態

つまり”自由”になるにはどうしたらよいのか。

 

一緒に考えてみませんか。

 

”自由”になりたいあなたへ