負の感情は繰り返される

 

棚田克彦 『「心の自由」を手に入れる技術』

 

心理療法士である著者が、NLP(神経言語プログラミング)の原理に基づいて、

私たちが生きづらいと思う原因について解説しています。

 

具体的な方法というよりは、心が窮屈になってしまうメカニズムを

理論的に明らかにしている本です。

 

よって、本著を読んだだけで革新的な変化が起きるわけではないかもしれません。

 

日常を振り返るような気分で読んでみると、納得する部分があると思います。

 

 

冒頭で登場した印象深いフレーズがありました。

 

「私たちは普段、その場その場で状況を見ながら意識的に考えて行動しているように見えて、

実は、ある特定の状況で、同じような考え方や感じ方、行動のパターンを繰り返していることの方が

多いようです。」

 

「実のところ、私たち人間の心は、まるでコンピューターのように精密で正確な働き方をする

という側面を持っています。心の働きは決して何の必然性もなくランダムに起こっている訳ではありません。」

 

 

蓄積された負の感情が不自由の素になる

私たちが感じる負の感情は、

あらかじめ心の奥底に留まっていたものが

何らかの出来事をきっかけに表出しているだけなのです。

 

例えば、

パン屋さんにあんぱんを買いに行ったけれど売っていなかったとします。

 

欲しいパンが売っていなかったという事実一つに対しても、

どのような感情を抱くかは、人によって様々です。

 

心が自由な人は、「運が悪かった」と思い忘れてしまいます。

心が少し不自由な人は、「もっと早起きしていれば」と後悔します。

心がとても不自由な人は、「日頃の行いが悪いからだ」と自分を責めます。

 

 

パンを買えなかったくらいで自分を責める人は、そう多くないかもしれません。

 

しかし、仕事を頑張ったけれど昇進出来なかった

という経験の場合はどうでしょうか。

 

「ここがダメだったのか」、「どうすればよかったのだろう」、「あれが良くなかったんだ」・・・

など、思い悩む人は沢山いる事でしょう。

 

 

そうやって思い悩む原因となるのが、

「過去の負の感情」

だとされています。

 

起こった出来事の見方や解釈は、

自分が元々持っている感情によって、

「良い出来事」なのか「悪い出来事」なのかの意味付け(ラベリング)がされるのです。

 

 

感情と記憶

先ほどの例のように、同じ出来事でも、

「たまたま運が悪かった」と軽く考える人もいれば、「日頃の行いが悪いからだ」と重く捉える人もいるのは

その人独自の「考え方のクセ」によるものです。

 

私たちは、一人ひとり

この「考え方のクセ」というパターン

を持っています。

 

 

ではどうやって「考え方のクセ」が付くのか?と言えば、

幼児期に負の感情を経験した記憶

である事がほとんどだと言われています。

 

特に母親との関係が代表的ですね。

 

 

物心のついていない子どもは、

物事を筋道立てて考えるという事が出来ません。

 

そのため、例えば母親が背を向けたという経験があり

母親は食事の準備をしようとして体の向きを変えただけだったのに、

「母親を不機嫌にさせてしまい嫌われた」という負の感情として記憶化されたりします。

 

 

つまり、「昔の嫌な思い出」というのは、

実はかなり事実をねじ曲げて解釈したまま

頭に残っている可能性があります。

 

また、あなたが事実だと思っている過去の記憶が

本当に起こった事なのかどうかすら

正確には分からないのです。

 

実際、トラウマだと思っていた出来事を家族に話してみたら

自分の解釈とは全く別の出来事が起きていて、

しかもとても幸せな出来事だった事が判明したりします。

 

 

負の感情の正体

私たちは

「悲しい」と感じる出来事が起きた時、

ある出来事が起きたから悲しくなったのだと感じます。

 

しかし、その「悲しい」は、

あなたの遠い昔のよく分からない記憶の「悲しい」が

過去と同じような体験をした拍子に表に出てきただけです。

 

 

ちょっとしたことで落ち込んでしまうという人は、

過去の負の感情が何度も何度も強化されて

深く刻み込まれているのだと思います。

 

 

負の感情に振り回されないようにするために

何をすべきなのかについては

「過去の経験」を検証するところから始めると良いかもしれません。

 

 

もしあなたが紛れもない「不幸な出来事」だと思っていた事が、

本当は「幸せな出来事」だったとするならば、

少しは「自由」になれると思います。

 

自由になりたいあなたへ

親友になって

 

パイサーン・ウィサーロ著,浦崎雅代訳:

『心が自由になる、初期仏教30の説法 タイの森スカトー寺 住職パイサーン・ウィサーロ師のお話』

 

→1回目記事「バースデーブルーという苦しみ」

→2回目記事「受け入れて自由になる」

→3回目記事「生きる希望と自由」

→4回目記事「長生きする秘訣?」

 

本著のレビューは5回目となります。

 

「生まれた意味」と「生きる意味」

パイサーン・ウィサーロ師は、私たちの生まれた理由について、

両親が導いたものであるという見解を示しています。

 

「私たちは幼いころ 保育園(あるいは幼稚園)には

自分から進んでそこに入ったわけではありませんね。

お父さん、お母さんがそこに入らせたわけです。

 

それは私たちが この世に生を受けたことと似ています。

自分だけで生まれてきたわけではありません。

父と母が 私をこの世に誕生させたわけです。」

 

「なぜ生まれたのか?」を

「両親が望んだから」と受動的に考えるのは、

多くの人がすんなり納得出来るのではないかと思います。

 

 

一方で、

「なぜ生きるのか?」は、他人よりも

自分が主体となって考えなければならない命題です。

 

「なぜ生きるのか?」に対する答えを見つけるためには

いったん「自分基準」で考える必要が出てきます。

 

 

「自分」という存在

私たちは生まれた時、母親の身体から別離する事を、否応なしに体験します。

 

赤ちゃんが生まれる時に「泣く」という行為は

医学的な意味として「呼吸を開始する」ためだとされていますが、

初めて母親から「離れる」事の象徴でもあるように思います。

 

赤ちゃんが、生後何か月もの間

母親とほぼ一心同体で過ごす事からも分かるように

人間には元々「一人」の耐性が全くありません。

 

 

しかし、成長とともに母親から離れるようになり、

だんだんと「自分だけ」でやる事が増えてきます。

 

一人で何かをする時には、辛い思いをする事もありますが、

本当に自分の思った通りに動くという喜びも感じるものです。

 

 

自分が「これをやりたい」という意志が芽生え始めると、

例えば一緒に遊んでいる友達と意見が食い違ったりして

「自分の意見」か「友達の意見」のどちらを選択するかという問題が出てきます。

 

集団生活の中では、

「人と仲良く」「思いやり」という他者を尊重する言葉が「善」となり、

「自己中心的」「身勝手」という自分を優先する言葉は「悪」のように対比されがちです。

 

 

このような善悪の倫理観を受けて育つと、

「自分のため < 他人のため」

という順位付けが、自然と身体に染み込んでいきます。

 

つまり、社会生活の中では「自分」が常に「軽視」され、

何をするにも他人に主導権を握られるようになってしまうのです。

 

 

「自由」の大前提

自分は後回しにすべき、という考え方のままでは、

いつも他人の事ばかりを気にするようになり

「なぜ生きるのか?」に対しても自分の基準で決める事が出来ません。

 

逆に言えば、私たちが「自由になりたい」と願うのは、

それだけ他人に支配されて生きているという事でもあるのかもしれません。

 

 

自分で自分の考えや感情が分からなくなってしまった時は、

きっと、他人目線の思考から抜け出せなくなっています。

 

もし何か悩む事があり、グルグルした思考から抜け出せなくなっているのであれば、

「自分は自分の親友」だという仮想設定をしてみる事です。

 

親友に聞いて「自由」になる

「私が迷っているという話を、親友だったらどう言うだろうか?」

「親友だったら、こんな辛い思いをしている親友を放っておくだろうか?」

 

一度、「自分の親友」という

心から懐を許せる人を思い浮かべて、対話をしてみます。

 

 

すると、自分が親友の立場だったら

もっと「自由」に生きてほしい

と思うような事が出てくるはずです。

 

 

「自分を大切にする」というのは、言葉では簡単に言えますが、

具体的にどうすれば「大切」に扱った事になるのか、

分かりにくいところがあります。

 

だから、「自分を親友だと思う」という

仮想ながらも客観的な視点を持たせるのは、

もともと他人を「思いや」ってきた人であればあるほど効果があるのではないかと思います。

 

「親友」という視点に立てば、

一時的に自分が他人になり、

それだけ自分に対しても「思いやり」が自然と生まれてくるはずだからです。

 

 

生まれたばかりの赤ちゃんは一人では何も出来ないけれど、

成長するに従って何でも一人で出来るようになります。

 

他人の意見に重きを置いてしまう人は

自分の中にある「一人で出来る」を無視して

自分を「何もできない」存在に仕立ててしまっているのです。

 

 

「自由」は「自分の事が自分で出来る」という事。

知らないうちに閉じ込められていた「出来る自分」が居ないかどうか

少し気にしてあげてみると良いのかもしれません。

 

自由になりたいあなたへ

長生きする秘訣?

 

パイサーン・ウィサーロ著,浦崎雅代訳:

『心が自由になる、初期仏教30の説法 タイの森スカトー寺 住職パイサーン・ウィサーロ師のお話』

 

読めば読むほど考えさせられる本著ですが、今回で4回目の記事になります。

→1回目記事「バースデーブルーという苦しみ」

→2回目記事「受け入れて自由になる」

→3回目記事「生きる希望と自由」

 

長生きの秘訣

本著で紹介されている長生きの秘訣は、

「自分の居心地の良さを選択すること」

だそうです。

 

しかし、居心地を良くするためにしている行動が、

別の居心地の良さを阻害する原因になってしまう、

という事はよくあります。

 

例えば、快適な生活をするためのお金を稼ぎたいと思って仕事を始めたが

自分の趣味やプライベートに費やす時間が無くなってしまう、

というのは多くの社会人が経験する事ではないでしょうか。

 

お金によって実現できる便利な暮らしという「居心地の良さ」と

時間が十分にあるから出来る趣味などの「居心地の良さ」が、

トレードオフになってしまった。

 

このように「居心地の良さ」が一部しか達成出来なくなってしまうと、

ストレスや病気などの歪んだ形で私たちを蝕み

結果寿命が短くなる、と本著では説かれています。

 

 

居心地の良さを追求する

仕事とプライベートを考える上で「職業」は関係が深いです。

「自由」になりたい人にとっての「居心地の良さ」に

最も適した職業は何だろうかと考えてみました。

 

仕事という「外向きの自分」と、

プライベートという「内向きの自分」が、

お互いに犠牲にならずに共存する職業。

 

それは、「研究者」なのではないかと私は思います。

 

仕事とプライべートがちょうど中和する言葉として、「生きがい」というものがあります。

「生きがい」は、社会的使命の要素もあるけれど、自主的な願望も伴っている行動です。

 

この「生きがい」とは、広義の「研究」にあたるのではないでしょうか。

 

例えば旅行が生きがいの人は、旅行についての知識を物凄く持っているし

自らの経験も沢山積んでいるので、旅行という分野に圧倒的に精通した研究者であるはずです。

 

いわゆるオタクも、好きな事に対して執念を感じるほど知り尽くし

また徹底的に体験し尽くしているので、研究をやり続けているようなものだと思います。

 

ここで定義する「研究者」は、既存の学問分野の中で研究をする人だけには限りません。

グルメ家、アイドルの追っかけ、、。

 

研究の対象はとにかく何でもいいですし、特定の組織に依存する必要もないのですが、

自分が興味を持っている事に対してただただ純粋な気持ちで追究する研究者

になるのが、「居心地の良さ」を実現する職業ではないでしょうか。

 

居心地に妥協をしない

「居心地の良さ」が仕事とプライベートでトレードオフになってしまうと

「自由」の実現は遠のいてしまうと思います。

 

今、私は研究者として、

どうすれば自由に生きていけるかを研究しています。

 

現状では「居心地の悪さ」を感じるポイントは全くないのですが、

そのうち何か窮屈だと思う事に遭遇したら、「居心地が良く」なるように環境を変えたいです。

 

 

一度「居心地が良い」と思って決めた道だと、

途中で行き先を変えるのはためらいが生じる可能性もありますが、

もし「居心地が悪い」と感じるのであれば変更するべきだと思います。

 

就職や転職でもそうですが、入社する時点では、

当然やりたい事が出来る、夢を実現出来ると思っているはずです。

 

 

ところが、月日を経ていくと、

自分のやりたい事がその会社で叶えられないと判明したり

自分が描く夢そのものが変わって別のものになる事が少なくありません。

 

もしあなたが今、

「何となく自由じゃない」という不満を抱いているのだとすれば、

「居心地の悪い」環境に妥協して「居心地の良さ」を追求していないのかもしれません。

 

自分にフィットしない環境に身を置き続ける事は「居心地が悪い」のですから、

他の「居心地の良い」環境に移ることを検討すべきです。

 

 

「自由」がモットーでない人は、

「居心地の悪さ」が「あばたもえくぼ」のような愛着に変わり、

愚痴を言いながらでも現状を変えない事の方が幸せと思うかもしれません。

 

しかし、「自由になりたい」と思う人にとっては、

「居心地の悪さ」は「自由」でない原因になります。

 

 

「一度言った事は最後までやり通す」「地道にコツコツ継続」という考え方は、

「自由」を目指す人にとっては不要です。

 

なぜなら、

「盲目的な継続」が「居心地の悪い状態の継続」になりうるからです。

 

 

何かに迷ったり悩む事があれば

自分にとって「居心地の良い」方を躊躇することなく選択し、

「研究者」として興味のあるものを追求していくのがベストです。

 

もし、そんな風に生きる事が現実には無理だろうと感じたら、

こちら を読んでみてください。

 

自由になりたいあなたへ

生きる希望と自由

 

パイサーン・ウィサーロ著,浦崎雅代訳:

『心が自由になる、初期仏教30の説法 タイの森スカトー寺 住職パイサーン・ウィサーロ師のお話』

 

今回で、上記著書の記事は3回目になります。

どれだけ話題が尽きないのかと思うほど、大変多岐にわたって「自由」を考えられる本ですね。

 

前回、「苦しみから自由が生まれる」という話をしましたが、今回はその続きです。

→前回記事

 

苦しみとは何か

人間が感じる苦しみは仏教では「四苦」と言われ、「生老病死」とされています。

1つ1つ分解してみると、「生まれる」「老化する」「病気になる」「死ぬ」ですね。

 

本著には次のようなエピソードがありました。

 

40歳くらいの男性が仕事をしていたら急に警察から電話があり、

「奥様が急に倒れて病院に行かれました。ICUに運ばれ、容態はかなり悪いです」と言われたそうです。

急いで病院に駆けつけたところ、警察からの連絡は間違い電話だった事が判明し、

奥さんはいつもと変わらず元気だったのでした。

男性はその日、いつもの一日と何も変わらないのに、とても幸せな気持ちで過ごしたそうです。

 

「いつも通り」

苦しみは、自分自身はもちろんですが、身近な人に起きた時にも影響を受けます。

 

この男性は、奥さんに「四苦」のうちの「死」に該当する事態が起きたと思い焦燥したが、

結果としては何も無かったため「幸せな気持ち」になったという事です。

 

 

私たちは、嬉しい事や楽しい事があって気分が上がるだけではなく、

悲しい事が起きなかったという「苦しみの回避」でも幸せを感じられます。

 

逆を言えば、「苦しみを出来るだけ感じずにいたい」という思いもあるわけです。

 

「四苦」に当てはめると、

「死」や「病」気にかからないように健康に気を付け、「老」けないためのアンチエイジングやトレーニング。

そして、この世に「生」まれると必ず「老」「病」「死」に直面し、苦しみと人生を供にします。

 

 

生きる事自体が「苦」を伴うものであるから、苦しみの発端は「生」であり

人生に苦しみはつきものである、と遠い昔に釈迦は定義付けました。

 

「どんなに避けたり対策をしていたとしても、

老い、病気、そして死はやって来るし、向き合わざるをえない時がある」

というのは、私たちが生きる上での宿命のように感じます。

 

 

苦しみとどう向き合うか

生きていると苦しみから逃れようと思っても逃れられない

というある種の「絶望」もまた、私たちを「苦し」めるかもしれません。

 

苦しい事は「四苦」のような大きな出来事だけでなく、私たちの日常にはびこっています。

毎日の仕事や、人間関係などで、嫌だなあと思う事は色々ありますね。

 

 

しかし、「苦しみから自由が生まれる」法則に関して言えば、

1つ1つの苦しみの意味をクリアにしていく事こそが「自由」のタネなのです。

 

自分が嫌だと思う事や望まない状態に流されて

苦しみをそのままに放置しては、

人生は辛いだけになってしまうと思います。

 

病を患った人が病気という「苦」を受け入れて「自由」になれるように

「そもそも苦しみは人生の前提だ」と捉え、

苦しみと喧嘩をせず、乗り越えていくべきです。

 

 

苦しみの乗り越え方は、他人から逃げや諦めだと言われるものでも良いと思います。

 

なぜなら、人生の前提が苦しみである以上、

苦しみを解決しなければ生きる希望を無くしてしまうからです。

 

 

私たちは「自由になりたい」と願います。

 

人生に苦しみは必ず訪れるものなのだから、

自分で何か対策を施さなければいつまでも「自由」にはなれません。

 

「苦」は、ハプニングではなく、日常です。

 

そして、

もしかしたら、

「苦」を繰り返し解決していった先に「自由の完成形」があるのかもしれません。

 

 

自由になりたいあなたへ

 

受け入れて自由になる

 

 パイサーン・ウィサーロ著,浦崎雅代訳:

『心が自由になる、初期仏教30の説法 タイの森スカトー寺 住職パイサーン・ウィサーロ師のお話』

 

今回も、上記著者のパイサーン・ウィサーロ師の言葉から「自由」を考えます。

→前回記事はこちら

 

想定外に対する苦しみ

私たちは生きていると、大なり小なり自分の思惑通りでない事に出くわし、苦しみを覚えます。

 

 

前回話題にした「バースデーブルー」もそうです。

自分は祝ってもらえると思っていたが、実際はそうではなかったという

「予想と現実の乖離」に苦しみます。

 

 

バースデーブルーに限らず、思わぬ怪我、病気、失敗、また時として成功でさえも、

私たちは想定していなかった事態に対して戸惑いを感じます。

 

そういう唐突の苦しみについて

パイサーン・ウィサーロ師は、次のように述べています。

 

「自分にとって不満なことに遭遇した時 拒絶するかわりに心を新しく置いてみましょう。

あー、これは真実が起こってきている 起こるにふさわしいことなのだなあ、と

受け止めてみるのです。」

 

 

「気づく事」の効果

思い通りにならない事を受け入れるのは、とてもエネルギーを使います。

 

例えば、それまでバリバリ働いていた人が、突然病気になって働けない状態になってしまった時には

「なぜこうなったのか、どうすればよかったのだろう」

「これからどうすればいいのだろう」

と、考えをグルグル巡らせてしまい、なかなか現実を直視するのは難しいでしょう。

 

 

突然のショックを受け、過去のあれこれや未来の心配で頭がいっぱいになると

「思考」が自分を支配します。

 

 

「病気になったから思うように動けない」という不自由よりも、

「今の自分を受け入れられない苦しみ」の方が、私たちをより一層不自由にさせます。

 

そして、考え続ける事で現状から目を逸らし、今起きている現実に抵抗しようとするのです。

 

 

一方で、病気になった人が

「病気になった事は幸運だった」

と思える時が来ると、苦しみが消えて「自由」になる事が出来ます。

 

本著では、心臓病になった人が病気をきっかけにボランティアに目覚め、

病気になる前よりも大きな生きがいを持つ事が出来、

幸せな人生を送れるようになったという事例がありました。

 

病気になって喜ぶ人などいないと思うかもしれませんが、

病気をきっかけに自分の人生を見直し、新たな発見が出来た結果

その人が本当にやりたい事を出来るように変化するのは珍しい事ではないのです。

 

死に直面するような重い病気になった人が、病気を受け入れる事で

それまでの閉塞感を打開し、新たな人生を手に入れるケースは多くあります。

 

 

現状を打破して「自由」になるために

人は自分の想像の範疇を越える苦しみに出会った時、

時とともに「これは何かの啓示である」と気づく事が出来ます。

 

そして、起こったことに対して怒ったり落ち込んだりと激しい負の感情を持つのは、

真実を受け入れられずに拒絶しているからです。

 

バースデーブルーで現実を受け入れられない原因は、自分の基準ではなく他人の基準で生きているからですが、

「他人の言動にいちいち振り回されるのは、自分が納得する人生を歩んでいないからだ」

と気づくと、その人の生き方は変わっていきます。

 

そもそも、誕生日という自分特有のイベントが

人に祝われるか否かで良し悪しが変わってしまうのはナンセンスです。

 

特定の人に誕生日を忘れられていた事で、自分に無価値感を感じてしまったのならば、

「自分ひとりでは価値を感じられない」という事でもあります。

 

では、なぜ自分だけで価値を感じられないのかと言うと、

自分が価値を感じる日々を過ごしていないからなのです。

 

 

自分の人生は、先述した病気の例のように、「受け入れる」事の連続だったりします。

ですので苦しさも伴いますし、逆に病気になって初めて、自分のやりたい事が分かる場合もあります。

 

誕生日という出来事がきっかけでネガティブな気持ちになる事は、不本意だと思いますが、

その苦しみには新しい価値観が隠れています。

 

病気をきっかけにボランティアを生きがいにした人のように、

人に祝われなかった苦しみが、今とは違う生き方を示唆しているはずなのです。

 

 

そして、このように苦しみから新しい価値を見い出していくのは、

より自分を「自由」にするためだと思います。

 

何も苦しい事がなければ、わざわざ「自由になりたい」という希望は持たないでしょうし、

自分が不自由に生きている事にも気づかないからです。

 

苦しみを「受け入れ」て、その意味を考えていく度に、「自由」は広がっていくはずです。

 

苦しみから自由になるためのヒントはこちら