諦めたらそこで試合終了ですか?

 

為末大『逃げる自由 <諦める力2>』

 

元陸上競技選手の為末大さんが、前著『諦める力』の第二弾として読者から寄せられた質問に答える形で書籍化した本です。相談内容の多くは「”あるべき姿”と”思わしくない現状”のギャップに対する悩み」であり、本著では悩みに隠された根本的な問題を暴くように、著者独特の切り口で回答がされています。

 

読んでみて、著者はとても肩の力を抜いて生きている人なんだなという印象を受けました。アスリートとしての生活から離れ、会社経営者として社会に関わる中で「人と競う事だけが生きる事じゃないんだ」と気づいたとも言っています。

私はスポーツ選手の生活がどういうものか具体的には分からないのですが、自分と向き合う世界なのだろうなという想像は出来ます。自分をとことん見つめる環境の中で得た様々な気づきが、世間一般で多くの人が抱える悩みを解決するヒントになったようです。

 

「頑張らない自由」

世の中で「頑張る」事は奨励されがちで、仕事をする上でも「成長」や「向上心」を持つ人の方がどこか偉いような扱いを受けます。「やる気がない」「やりたい事はない」と言うとダメな人だと認識される場合は多々あるのです。

本著の相談内容で、「仕事で特にやりたい事がない。職場で上司から専門職かマネジメントのどちらへ進みたいかを聞かれて困ってしまった。」という相談がありました。相談者は、漠然と好きな事や得意な事はあるのだけれども、強く「これをやりたい!」というものは無いとの事です。

 

著者はこの質問に対し、「好きな事をやるより、世の中に求められる事をやって生きていく自由もある。自分がやりたい事よりも、自分が必要とされる状況があれば満足する人もいる」と言っています。そして、「他人に好きな事をやってくださいと言うのは、その責任は自分で取って下さいと言うのとセットで、そのセットに対して幸福感を感じない人もいるんじゃないか」とも述べます。

 

この相談者の人は、自分の望む事が自分で分かっているけれども、今後仕事で期待される事とは違っているという「ズレ」に悩んでいるようです。多くの人が、求められる仕事と自分の理想とする仕事の在り方の間に軋轢を感じ、悩む事があると思います。

自分の方向性と周りの環境が合わない時、自分を周りに合わせて頑張ってしまうと、「自分は何をやっているんだろう」とふと違和感を感じる瞬間がいつかやってくるはずです。自分が仕事で「上に行く」事を望んでいないならば、「上に行かない」働き方が許容されている環境に身を置くべきだと思います。

 

ただ組織にいると、「将来的にもずっと今のままでいたい」という考え方はなかなか受け入れてもらえないかもしれません。会社が会社の利益を最大化するためにどんどん規模の大きな仕事を任せられる人を作っていくのは自然な流れであり、「成長しない自由」は大概存在しないからです。

 

しかし、あなたには「頑張らない生き方」を選択する「自由」があります。人は会社など特定の環境に居続けると、そこで「頑張る」以外の生き方はないのではないかと錯覚してしまいがちですが、そうではないのです。

「頑張らない自由」とは、あなたの中にある価値観に正直に生きる自由です。環境や人に合わせずに、自分が良いと思う事に対して実直でいると「自由」の中に居られると思います。

 

 

「期待に応えない自由」

また、本来「生き方」は様々な選択肢があるはずなのに、「期待」という制約によって窮屈に感じる事はないでしょうか。人に期待されたような結果を出す事が出来なかったから辛いとか、いい結果が得られると思って頑張ったけれど報われなくて落ち込んだ、など。

人は「期待」という「未来を考える行為」をします。期待は、「自分が他人へ向けるもの」、「他人が自分に向けるもの」、また「自分が”未来の自分”へ向けるもの」の3つがあると考えます。

 

「あの時ああしておけば」という後悔は、「過去の自分が期待した”未来の自分”に、現在の自分がなれていない」という不満から生まれます。人が自由でない原因は、「他人から自分への圧力」だけでなく、「自分から自分への圧力」もあるのです。

私たちは「自由になりたい」と思う時、身近な人や環境から離れれば解決すると考えます。「この人さえいなければ」、「この家を出られれば自由になれるのに・・・」と思いますよね。

 

しかし、嫌な仕事を辞めたり嫌いな人からも離れて外的要因を排除したにも関わらず、なぜか「自由」になれないという場合があります。自分を阻むものは何もないはずなのに、いつもどこか生きにくさを感じてしまうのです。

他者を排除しても「自由でない」と感じるのは、「自分の期待に応えようとしている」せいかもしれません。その「期待」は、小さい頃から刷り込まれてきた「社会人」という概念だったり、自分が過去に設定した「目標」「夢」だったり、色々あります。

 

「目標」や「理想像」という「自分に対する期待」は往々にして私たちを縛る原因になり得ます。意識が、未来の自分ばかりに向いてしまうと、今の自分が身動きを取れなくなりいつまでも「自由になれない」のです。

「目標」を立てる事は素晴らしい事ですがその目標によって自分が「未来の自分」にばかり引っ張られると、「今の自分」を否定し続ける事になってしまい、「自由でない」状態が続いてしまいます。

 

「期待」を捨ててみる事は、「自由」になるために効果的です。過去に立てた「目標」やずっと心に秘めている「夢」に対して、「自分は本当にそうしたいのか?」「見栄やプライドでいつまでも抱えているだけじゃないのか?」など、一度疑問を投げかけてみてください。

 

自由になりたいあなたへ

人は自由が嫌い?

 

自由になりたがらない人々

 

日本人は、農耕民族であるがゆえに、育った場所や土地から離れるという発想があまりないと言われています。実際に私たちは、昔からの幼馴染や同じ学校出身という「くくり」で群れたがるし、そういう集まりは当たり前のように繰り返されます。

集団や組織といった人の「群れ」で言われる事は、「人に優しく」や「周りの事を考える」という道徳的スローガンです。多くの人が「他者に対して気を配る」という行為は偉いものであると幼い頃から教育されて成人します。

 

人と違う事をする人が「空気が読めない」と揶揄されるのも、集団に馴染もうとしない事に対する制裁です。私たちにとって「人の目を気にする」のは当たり前とされる一方で、「自由」は大衆の意向に沿わない行為も意味しており、世間一般には受け入れられにくい印象があります。

平均的な暮らしをし、サラリーマンとして電車通勤をし、なじみのメンツと時々集まりながら流行にも遅れる事なく生きていく。多くの人が良しとする社会人像というのは、「人と同じような生活を出来ている人」なのではないかと思います。

 

自由になりたくない理由

人が必ずしも自由になりたくないと言うのは、自由というものと引き換えに「安心」が奪われるというイメージも関係していると思います。「安心」というのは、人と同じように生活しているという同族意識であり、周りの人が良いと言う価値観に自分も賛同する事で得られる仲間感です。

身近な人が自分を受け入れてくれないという否定的な態度は、私たちを不安にさせます。なので、自分にとってより重要な人、家族や同僚であれば、なるべく彼らの思惑から外れないように行動パターンを決めているはずです。

 

周りの人と同じように生きるという「安心」と、自分の思うがままに生きるという「自由」を比べたとき、「自由」は得なのかどうかを考えてしまいます。「自由」になって得られるものが、今の環境を手放してまでも手に入れる価値があるものかどうかが分からないから、今の延長線上に生きていく事が一番だと思ってしまうのです。

また、多くの人が思い描く「自由」の理想像には、「安定」も失うという不安もあります。会社勤めであれば毎月同じ額を給料として貰う「安定」があるけれど、「自由」にはその「安定」がないから嫌だという抵抗が生まれるのです。

 

自由になりたくない、というのもまた嘘

「自由」に対するマイナスイメージやデメリットというのは、多くの人が想像するところです。しかしながら、多くの人が「絶対に自由なんかになってやるものか」と思っているかというと、それもまた違うのではないかと思います。

つまり、多くの人はどうにかして「自由」になりたいとは思っているけれど、それを素直に口にしたり実際に行動する事は出来ないという状況にある気がするのです。

「人並みで良い」という気持ちがありながらも、「本当はもっと違う事をしたい」「あんな風に奔放に生きられたら楽しいんだろうな」とも思うのが本音なのではないでしょうか。

 

今の生活に本当に満足しているのなら、誰も悩んだりしないはずなのです。でも、「悩んでいない人などいない。誰しも悩みを抱えているものだ。」と言われると、そうだよなと素直に頷けてしまう。

それは、多くの人が自分は「自由」になりたい事を心のどこかでは知っていて、「自由」になれれば悩みが解決する事にも気づいているけれど実際の行動に移すのは容易くないと感じているからだと思います。

 

自由を受け入れるには

私は、人は本質的に「自由」を求めていると思います。

- 人間は考える葦である -

これはフランスの哲学者パスカルが残した言葉ですが、人間は脳という器官を持ち「考える事」が出来る生き物です。

この「考える」という行為は、自分をより良い方向に進めるために行われます。人が頭を使って考えるのは、結局のところ「良い人生を過ごしたい」という積極的な目的のためなのです。

 

「もっと仕事が出来るようになりたい」「稼げるようになるにはどうしたらよいか」と考えるのも、仕事が出来て稼げるようになり、自分の人生を好転させるためだと思います。

また「失敗したらどうしよう」「将来が心配」という不安な考えが浮かぶのも、失敗や心配を予め把握し不測の事態に備える事によって、自分の人生を順調に進めるためにあるのです。

 

「自由」に対する思いが湧いてくるのは、ネガティブな考えであったとしても、人生という大枠で見ればより良く生きたいという前向きな潜在意識によるものです。恐れや大丈夫かなあという気持ちは、あなたが本当は「自由」を望んでいるという証拠でもあります。

「自由」を意識して考えている時点で、あなたには「自由」になりたいという気持ちがあるのだと思います。今のまま生きていくのか「自由」を選ぶのかに迷ったら、あなたの無意識の声に、少し耳を傾けてみるのも良いかもしれません。

自由になりたいあなたへ

自由になるために我慢は必要か?

四角大輔『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと』

 

四角さんは、ニュージーランドに移住され自然と伴に暮らしている方です。日が昇ると伴に目覚め、また日が沈むと伴に眠るという生活をされています。

ニュージーランドで生きるという目標を糧に、15年間サラリーマン生活をし、激務に耐えながらも移住準備の貯金をし続けたそうです。周囲が高級車に乗ったり豪華なマンションに引っ越していく中で、ボロボロのワンボックスカーに雨漏りしながら13年間乗り続け、敷地内にお墓がある築40年の部屋に安いという理由だけで住み続けたと言います。

 

人に「ニュージーランドの湖畔で暮らしたい」と言っても苦笑される事が多かったけれど、それでも夢を実現する事は諦めなかった。そして夢を叶えるためにサラリーマンを続け、原因不明のじんましんを負ったり、ストレスから来る歯ぎしりで奥歯が割れ、駅のホームで意識を失う事もあったというエピソードも綴られています。

常識に縛られ、自分に嘘をつきながら、周りに合わせて我慢する事が「大人」なら「そんなのおかしい」とずっと思っていたそうです。一刻も早くこの場所から抜け出したいという気持ちでいっぱいだった、と。

 

夢を叶えるために我慢は付き物?

「自由」はよく、「老後に田舎暮らしをするために定年までは働いて貯金をする」だったり、「夢を叶えるために若いうちは修行をするべきだ」という発想で語られます。

本著でも、サラリーマン時代の苦痛な人付き合いや出世のための駆け引き、残業に継ぐ残業という一種の「苦行」に著者は苦しんだと記されていて、そういう生き方以外にも道はあるのだという思いが伝わってきます。

しかし、私たちはそういう「苦行」を通り抜けなければ、「自由」になれないのでしょうか?

 

どこか「自由」になれるのは選ばれし者だけなのだという空気が蔓延していて、何の修行もしていない若者が「自由になりたい」と言うのは間違っているという一般的認識がある気がします。

また、「かつて辛いを思いをしたから今がある」といった「苦労話」が人の成功に付きまとう場合もあります。

私たちはいつからか、苦労をしていない人は自由になれない、自由になるためには苦労しなければならない、とまで「自由になるのは難しい事だ」という意識に刷り込まれているように思います。

 

「自由」になるためにはそれまでに辛い事を乗り越えなければならないのか、について、私の答えはNOです。「自由」は昔の苦労と引き換えに手に入れるような特別なものではありません、誰もが元々持っているものなのです。

 

「捨てる」ことで「自由」が見えてくる

本著では「捨てる」事の大切さが語られています。これは私のこれまでの経験からも大いに賛成するところです。

例えば、「アピールを捨てる」。

「できます!」「やります!」と言う20代は確かに周囲に受け入れられやすいです。その仕事がやりたいかどうかではなく、「やる気」という姿勢を上司に見せる事で、やりたい仕事を手に入れる事をあわよくば…と願っているかもしれません。

 

でも、自分は「やりたい仕事」のために「やりたくない仕事」をしなければいけないのか。やりたくない仕事という苦行と引き換えに、やりたい仕事を手に入れるという思考は、「若者は修行すべきだ」という考え方と同じではないかと気づくのです。

本当にやりたい仕事のためにやりたくない仕事をやらなければならないのかを考えてみると、実際はそうでもないはずです。にもかかわらず無理だと思うのは、「ごめんなさい」「できません」という自分が周りから「能力がない人」だと見られるのが何だか嫌だ、気が引けるという気持ちが眠っているのではないでしょうか。

 

また、「人脈を捨てる」というのもあります。

「付き合いだから」という枕詞は、あなたを自由にするでしょうか。あなたが「人脈」で過ごす時間は、本当に過ごしたい時間なのでしょうか。

なじみの人が集まって話す話は、それぞれの愚痴や不満などの繰り返しです。各人が「自分がいかに自由でないか」を語り合うという、ネガティブな感情で繋がる事を絆だと勘違いしている執着関係のように感じます。

 

ただ昔同じ学校だったから、同じ職場だったからという条件だけで集まる人たちから離れてみると、驚く事があります。自分はこんなに「他人」に時間を奪われていたのだ、という事です。

「自由」になる人は目的を持って人と会います。なぜなら、人と会わずに一人で好きな事に没頭している時間は何よりも「自由」だし、その「自由」と比較しても会いたい人なのか参加したい場所なのかを常に考えるからです。

 

「自由」になると世界はあたたかい

「そんな生活寂しくないの」「かわいそう」と世間は問いかけてきます。まだ「自由」になりきれていないうちはそういう声に戸惑う事もあるかもしれません。

しかし「自由」を手に入れた人にとっては、そんな雑音は「自由になれなかった人の負け惜しみ」にしか聞こえません。自分が「自由」でないから、人を側において「自分が自由でないという不満」に付き合ってほしいだけなのです。

 

たしかに世間一般で「自由」を実現している人は少数派です。だから「自由」はそう簡単には手に入らない、手に入れるとしたら苦労しなければいけないという思い込みが多くの人を支配しています。

 

ですが、そういう思い込みは「捨てる」事によって一掃されるのです。一度身の回りの人、仕事、お金、モノから離れてみると、自分がこれまで「必要」だと思っていたものはなくても無くても何ともないと気づきます。

そして自分にとって本当に大切なものだけを厳選して生活してみると、ふとあたたかい気持ちが生まれてきます。「ああ、自分は元から自由だったじゃないか」、と心から思いが溢れてくるのです。

 

全てを「捨て」きったとき、あなたの中に隠れている「本当はこうしたかった」「かつてはこういう夢があった」事に気づくはずです。その沸き上がる思いがあなたの「自由」の正体です。

 

「自由になりたい、でも自分が何をしたいか分からない」というもどかしさは、「捨てる」事で解消されていきます。本当の自分が見えなくなっているのは、周りに「余計なもの」が沢山付いているからです。「捨てて」みると、宝探しのように、「自由」がひょっこり姿を現します。

 

色々「捨て」て「自由」になろう

あなたが「当たり前」「なくては生きていけない」というものを、少しずつ「捨てて」みてください。捨てるものはあなたが少しでも「嫌だな」を思うものです。

100%やりたい、というものでなければ捨てて何の問題もありません。大切なのはあなたが心からやりたい事であり、常にやりたい事をやれる環境に身を置くのが「自由」になる鍵です。