バースデーブルーという苦しみ
パイサーン・ウィサーロ著,浦崎雅代訳:
『心が自由になる、初期仏教30の説法 タイの森スカトー寺 住職パイサーン・ウィサーロ師のお話』
本著は、「自由」について考えるきっかけになる、大変意味深い本でした。
住職であるパイサーン・ウィサーロ師による「説法」が綴られているのですが、仏教に特化した物言いではなく、
人生相談のようなスタンスで書かれています。
1つの記事ではまとめきれないほど話題が豊富であったため、テーマごとに記事を分けて書いていきたいと思います。
今回は、「自分の価値」についてです。
幸せでない誕生日
昨今、自分の「誕生日」にストレスを感じる人がとても多いそうです。
→誕生日の自殺は1.5倍…「バースデーブルー」を知っていますか?
自分と仲が良いと思っていた人が、自分の誕生日を覚えてくれていなかったり、
誕生日当日に祝ってくれなかった事にショックを受ける人が多いという現象です。
バースデーブルーになる理由
人に誕生日を忘れられて、悲しんだり苦しんだりするのは、
誕生日を「自分の価値」と結びつけてしまうからです。
本著の著者パイサーン・ウィサーロ師は、誕生日について、次のように述べています。
「誕生日のプレゼントをもらえなくても、私の価値はかわらない。
誕生日を誰からも祝ってもらえなくても、私の価値はかわらない。
究極
自分の誕生日を自分で忘れていたとしても、私の価値は変わらないのですね。」
冷静に考えてみれば、誕生日を祝われなくても自分の日常には特に影響が無い、と分かるはずです。
誕生日は366日(閏年込み)のうちのたった1日ですし、
むしろその日をピンポイントに覚えている人の方が珍しい気もします。
ましてや自分の予定ではなく、他人の予定でもあるわけですから、よほど意識しておかなければなりません。
SNSで誕生日通知があるように、人の誕生日をずっと覚えていられる人はほとんどいないのだと思います。
誕生日は単なるイベントなのにも関わらず、祝ってもらえないと落ち込んでしまうとすれば、
「他人を軸に生きている」のが原因となっています。
「人から祝われる自分」「みんなが称賛してくれる自分」でなければ、生きている意味が感じられなくて寂しい、
という事だと思います。
誕生日をあなた自身と切り離して考えれば、
「忘れられている」のはあくまで誕生日という「イベント」だけであり、決してあなたの「存在」ではないのです。
他人に自分の価値を任せてしまっている
誕生日に祝ってもらえない事に落ち込んでしまうのは、普段から「人の視線」を基準にした振る舞いをしているからです。
バースデーブルーは、誕生日という「自分を意識するタイミング」で
人からどう見られているかをいつも以上に自覚するために、起こります。
また、
「私はあなたを祝ってあげたのだから、あなたも私を祝うべき」
とも言いたくなるかもしれません。
give and takeの考え方を意識している人であれば余計に、祝ってもらえない事が心に刺さると思いますが、
相手はそういう考えで生きていないという事の証明でもあるのです。
giveの目的が、自分が「得」をするためだと、見返りが得られなかった事を「損」だと感じます。
どんなに良い事をしても、その動機が、「認められたい」「称賛されたい」という気持ちだと、
期待通りにならなかった時に自分がやった事が無意味のように思え、
結果自分自身の価値が無いように錯覚してしまうからです。
あなたの価値という「自由」
世間では「人のために何かをするのは良い事」だと言われますが、何のために良い事をするのかはあまり語られません。
自分では他人からの見返りを期待しているつもりがなくても、
人に誕生日を祝ってもらえない時に、「なんで?」と疑問を抱いてしまう人は
いつも他人に対して期待を持っています。
そして、他人の動向に心を操られてしまうのは、自分の人生に価値を感じていないからです。
自分の人生に納得せずに生きている人は、自分を見たくないから、他人を見るようになります。
他人が祝ってくれない事によって、自分の価値が無いように感じてしまう苦しみは、
「自由」へ方向転換をする事で解消されていきます。
この続きは、また次回に話したいと思います。